十月上旬派。各駅停車主義。

20250105


年末年始になるとなぜか毎回ブログの世話をしている気がする。本当はVPSを借りて、Ghostで立てるようにしようかな、などと考えていたのだが、結局Hugoでテーマを変えてみて、あとは諸々のアップデートに追従するくらい。なぜか、といっても結局日頃まったく触っていなかったからに他ならないのだけれど。

Github Pagesでホストするのは簡単でよいのだけれど、スマホやタブレットからの更新がやや億劫で、平日あまり私用のPCを開くことがなかったため、完全に更新停止してしまっていた。毎年そう思っている気もするけれど、もうすこし読んだり書いたりを取り戻したいというのが新年の所感です。

20240525


新しい本棚が届いたので,組み立て.もともとあった本棚も含めて配置をやりなおしたので一日仕事となった.これで床に積んでいた本も一旦は収まるようになったわけだ.しかしながら,いくら本棚を増やしても「本が増える」という事象に対しては付け焼き刃な対応でしかないような感覚はいや増していく.自分にとってコントローラブルなダイナミズムからずれているということなのだろう.研究者見習いであったのはもう数年前までのことであり,「いつか参考文献に使うから」といった(自分への)言い訳もいい加減信憑性がなくなってきた.なんのために本を読み,あるいは積み,所蔵しているのか.趣味としての読書という読書の仕方については今まであまり考えたことがなかった気がするが,有り体に言っていまの僕にとって読書は趣味でしかないだろう.趣味としての読書,あるいはシリアス・レジャーとしての読書?

ともかくも,久々に表に出てきた本をまずは読み返すことから.

20240429


気づけばブログを数ヶ月間放置していた.去年の冬は比較的うまく越えられた気がしてたんだけど,最後のほうでちょっと調子を崩してしまった.やはり人類にも冬眠という選択肢があってもいいんじゃないだろうか?

春,があったかどうか,それには疑わしいところがないではないけれど,気温があがってくると元気がでてきた.演奏会に乗ったりとか,結婚式の準備をしてそれなりに忙しく過ごす.アマチュアで楽器を続けているひとにはいろんなタイプがあり,余暇時間のすべてを注ぎ込んでいるのではないかと思われる人もいれば,(僕のように)趣味のひとつ程度のリソース配分でたまに演奏会に乗ったりする,という人もいる.演奏会ひとつ実施するのも,ある種ルーティンワークの側面はあるとはいえ,それなりに労力を要する.人はなぜそこまでして楽器を演奏し,あまつさえ演奏会というマイルストーンをわざわざ置いて活動するのか.シリアスレジャーの研究を勉強していけば,もう少しわかることが増えるのかもしれない.それはそれとして,アマチュア楽団はおうおうにして熱意のある個人たちによって運営が支えられていたりするもので,なかなかそれは危ういものだとも言えるけれども,その一方でそれはライフワークのようなものなのだ,とも思うようになった.必ずしも演奏のクオリティが高いとは限らないし,聴衆も決して多くはなく,世で評価されることは特にない音楽.それでもそこには色々な人々が集まり,時間をともにする.こうした場をつくり維持すること,これは間違いなく尊いライフワークのあり方のひとつだろう.「世の中」というファクターはライフワークにとって必須のものではない.

一方で,それでもなお,自分自身の嗜好としてはライフワークには「世の中に向けたもの」というベクトルがある,考えていることに気づく.いまさら功名心とかあってもしょうがないけれど,あるものをないことにもできないので,なんらか対世の中的なアウトプットがあるような行動をしていくべきなのだろう.とりあえずもうすこしブログを書く習慣がつくれるとよいな.ポメラが気になる今日この頃.

20240129


家を持ちたいという気持ちが,すこし執着みたいになってしまっていてよくない.SUUMOやHOMESのようなプラットフォームを眺めていると新築/中古問わず住宅のストックは無限ではないにせよ,それなりに選択肢があるもののように見えてくる.時間が経てば市場の状況が変わるだろうということもあって,住宅市場の買い手は即断することができるだけのスピード感と待ちにまわれるだけの忍耐の姿勢の両方をあわせてもっていることが求められる.二つの要素はコンフリクトしやすく,たぶん真剣に向き合うとすごく疲れることになるので,本当に買おうとか建てようとかの腹を括ることができるまでは,ふんわり眺めておくのがよさそうだねえという感じがします.

それはそれとして,いろんな物件情報を眺めているときに思ったこととして,自分が魅力的に感じる物件は庭に木が生えていがちだということがあった.たとえばそれがまとめて開発・造成・分譲された住宅地だったとしても,雑草との付き合いやら落ち葉掃除やらの労力を勘案したとしても外構に土を確保し一本の木を植えるという選択,それは最低限暮らす環境の豊かさを担保する選択だろうと思う.豊かな空間に住みたい.

他方で,環境や空間をよりよくしていきたい,という方向性の一方で,自分の住まい方を考える,ということも十分にやらなければいけない,というようにも思ってきた.それは家への欲望が妄執にならなようにするためでもある.いま暮らしている住まいにはもう数年住んでいるわけだけれども,まだそこでの住まい方に取り組む余地は全然あるし,ちょっとした工夫で住むことの質を変えることだってまだまだできるはずだ.だからもっと,「豊かさ」ーーそれは真であり,美であり,善であるかもしれず,世界性といってもよいと思うのだけれどーーの感覚を磨き,それが到来しうるような隙間を開けておかなければならないな,というのが,寝付かぬときに考えたことであったのだった.しかしそれはそれとして,最近建付けの悪い窓際に防風用の衝立を置いたら部屋の寒気が改善したのだがその衝立がまたまったく美しくなく,これはこれでまったくままならぬものだねえ,とも思います.

20240116


日々なにかしらを考えているようでいて,実際には気を抜くと半自動的な反応の連鎖として生きているような気がする.そのようでありつつ,日記を書くことで多少なにか反省的な意識が生まれる気もする,とひとの日記を読みながら思った.そういう意味では日記というのは記録ではなく叙述なのだ,とやっぱり考える.これはひとつのやり方にすぎないけれど.

よくない疲労感があり,低調な一日だった.仕事をやっていくうえで生産性モンスターになりたいという嗜好は持ち合わせていないものの,ものごとがスムーズに進行しない/進行させられないのはフラストレーティブだと感じる.冷え込んでいるからか,気圧のせい(本当のところは気象病なるものがありうるかよくわからないそうですが)なのか.なんにせよ,ちょっとしたことで調子は崩れてしまう.たいがい脆弱な生き物だなと思う.

堀部安嗣の作品集を図書館から借りてきて読んでいる.図面をちゃんとは読めないので,眺めていると言った方が近いか.文章も頼りにしながら空間の意図を読み解いていくのは面白いし,諸条件に対して,住宅というのはいろいろな解をもちうるものだなあと思う.

botみたいな人間にはなりたくないな,という気持ちがある.ずっと前にマルコフ連鎖の小さいモデルみたいなものを実装して文章を生成させてみたとき以来その気持ちは強くなった気がする.人間らしくあることに大きな価値をおいていて,ある意味それが自分にとっての実存だというふうに思っていて,でも結局こうやって書いている文章も,これまで学習してきた言葉からそれらしい単語をつなぎ合わせているだけなのかもしれなくて,「個」とか「自我」とかもその確率論的重みづけの違いくらいのことかもしれないんだけど,どこかでもっと詩的な形で(超越論的に)実存なりがあってほしいなと思う.これは信仰の問題ですね.なんかもっとワクワクしたり,世界に対して驚いたりしたいし,そういうことができる人間でありたい.これは美的なものに対する構えの話であるような気もするな.世界の前にふと宙づりにされることは,若者だけの特権ではないと思いたい.疲れている気がする.早く寝よう.