十月上旬派。各駅停車主義。
20250812
メロンコリー、そして終わりのない生活。
三連休があると降り積もっている家の用事が片付いていく。引っ越しが近づいてきたから持ち物を色々と整理する。切断。比較的ものを溜め込むたちなのでこういうときに苦労する。とはいえ、こういった作業は文脈の再形成といえそうで、嫌いではないと思う。最大の課題は本棚だけど、これはもう一旦引っ越しが終わった段階で整理することにしよう、と諦めている。
金曜日からの「4oを返せ」という声を見ていると、なんでも話を聞いてくれる存在であるAIが出てきたことで、人間同士のコミュニケーションも変わっていくのだろうという予感がした。われわれは「すべてに取り合う」ということができない中で、しかし、時と場合によってそれなりの誠実さでもって会話するわけだけれど、AIはある意味「すべてに取り合う」ということができてしまう。そうなったとき、人間は不完全な話し相手なのか。コミュニケーションの概念が変質したとき、人間は人間との会話に耐えられるのか。ただ、会話の前提やプロトコルは世代間でさえ違っていたりするし、それとそう遠くない話かもしれない。そろそろみなさんが実家に帰って疲弊する時期である。
…20250730
仕事をあがってから2時間くらい歩いたり走ったりした。歩いたりできる距離なのだから基本近所と言って差し支えないのだが、近所であっても知らない道というのはかなりあり、さらに住宅街というのは道が入り組んでいるわけなので、遠回りしてみようと思い立って数時間歩くというのはいくらでもできるわけだ。歩いている間は夜の果てまでだって歩いていこうという元気さが湧いてくる。最近の昼間は常軌を逸しているとはいえ、しかし、昼間ひたすら机でPCを触っているのは、なんか間違えてるんじゃないか、という気持ちにはしばしばなる。とはいえ、だからといって肉体的なタフさが求められる職種で自分がやっていけるのかというと大きな疑問ではある。最近の散歩ではよくスリープオーバーラジオを聞いている。
仕事で資料やドキュメントを作成する場合、ある一定の型とか枠に収まっているものであれば八割方OKとみなされるんだな、ということが最近わかってきた。これは資料というのは驚くべきほど読まれないということを示しているとも言えるし、そういった「型」や「枠」が中身について一定の妥当性を保証する(「ロジック」が通っている、とか)ということかもしれないし、あるいは「理解」という現象そのものがそれらの「型」ありきの現象なのだ、という可能性もある。
他人の作成した資料を見てそう思ったのであり、自分はまだ一向に「型」を体得するにいたらない。社会人何年目でしたっけ。低山の藪を漕いでいるような仕事がずっと続いて疲れてきたけれど、山の豊かさは自分の知識と感覚の程度で決まるものでもある。修行。
修行とか言って労働にそんなにコミットメントしたいんでしたっけという話は常にあるが、一度修行が必要な状態になってしまったならば以降はすべて修行なんだろうな、という気もする。修行というのはつまり、自分の能力の足らないところを突きつけられ続けるということで、あとは修行の方向性が自分に向いているかどうか。ぼちぼちつつがなく暮らせているだけで御の字という話もあり、現時点ではもう少し頑張りましょうというところか。
…20250716
ふつう金槌の頭を持って柄の方で釘を打ちたい人は多くないだろうと思う。道具にはその道具なりの使い方がある。
これは単純化した例え話ではあるが、なんらかの道具ーーそれはたとえば標準化された仕様かもしれないし、分析フレームワークなどかもしれないーーを使うときに、その道具本来の想定から外れた用いられ方をする、ということはよく見る。それらの「道具」そのものに余地・余白・遊びがプリセットされているのであれば、それを正当化する道もあるだろうが、しばしば名前だけ借りた別物に成り果てているということもある。頭のついていない金槌はさすがに金槌とは言えないだろうし、虫眼鏡のレンズがひしゃげているのであれば、それが像を結ぶことはないだろう。こういうことにいちいち目くじらを立てたくなるけれど、そもそも概念と含意についてどれだけのこだわり(固執ともいう)を持つのか、というところが人によっても異なるし、そもそもそこで実際に意味しようと欲されていたのは金槌ではなくバールであったというような場合もあって、気にするだけ損をするのかもしれない、と思うし、あるいは、自分はただ正しい使い方の名の下に人を殴りたいだけではないか、という感じもある。人を殴ることはあまり建設的でないし、殴り返されることを覚悟する必要もある。 こういうとき、やはり概念が捻じ曲げられることには強く拒否感を感じるものの、それに対して違和感を表明するとともに軟着陸するソフトスキルが足りてないな、と思う。伸び代。
…20250714
模様替えをせずにはいられないという日が稀にあり、今夜がそれ。定住するということの困難さを思う。
ヒューマンスケールな時間は永遠と呼ぶにはあまりに短く、さりとて一瞬というのにもそこそこに無理がある。じぶんの時間軸はどのようなものであるのかを見定めることは難しい。世界の時間軸と生活や仕事の時間軸、あとは技術の時間軸も?、それらはてんでばらばらな目盛をもっているけれども、総じて同じ方向に進んでいく。引き裂かれるようにして私は歳をとっていく(誕生日はもうすこし先)。
たぶんまたしばらくしたらいまの配置にも飽きる。じぶんが変わっていく存在である以上はじぶんにぴたりとくる空間というのも変わっていくはずで、それまでのいましばらくをまた仮留めする。
…20250630
人との交流の目的ではほとんどTwitterを使わなくなっていて、どちらかというとそれこそマイクロブログ的にツイートを読むとか、あるいはもうすこし”情報収集”的な下心を持ってTwitterをみていることが多いように思う。単に「情報」だけを収集できれば苦はないのだが、やはりそこには人間的なノイズが多く含まれるし、基本的にTwitterは人を愚かにするものであるから、眺めていてしんどいことも増えてきた。とはいえ、他人の発信をタダで見ておいてなにが「ノイズ」「しんどい」なのだ、なのであり、これはインターネットの宿命であろうと思う。
似たような話で、Splatoonをやっていると時折いわゆる「煽り」を行うプレイヤーに遭遇することがある。PvPのゲームはほとんどSplatoonくらいしかやったことがないし、おそらくそうした「煽り」はゲーム文化のひとつだと思うので、取り立ててめくじらを立てるようなことでもないと考えるべきとしつつ、毎回、「こういう輩とも連帯して市民社会を作っていかなければいけないのだ」と思う。受け入れがたい隣人はきっと多い、しかしわれわれは連帯しなければならない。
散歩の途中、米津玄師の「地球儀」を聞きながら、宮崎駿が現在のところの遺作においてもっとも多くを託したのはヒミではないだろうかと思った。宮崎駿はいついかなるときも未来を肯定してきたし、それが母の目線を通してなされているように思う。宮崎駿と「母」というモチーフは語られ尽くしているはずなので、どこかで言われているんだろうけど、彼は「母」でありたいのではないか、と考えた。
「母」になりたい男たち、というのは結構いるように思う。土井善晴のこともおれはそのように解釈している。
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