Die Welt ist fort, ich muß dich tragen.

Paul Celan

> > 感情を残すということは、それは、とても畏れるべき行為だ、だから、この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う。(261頁) > > >

 「あとがき」にこのように書いてある、一冊の歌集について書こうと思う。

千種創一『砂丘律』のことだ。
春に以下のような形式で三刷を予告したところ、数日中のうちに増刷が決定したことは記憶に新しい。それだけ多くの人々にこの歌集が求められていたのだろう。

僕の手元にあるのは二刷のものだ。たしか、明大前にある七月堂で手に入れたのだと思う。

僕もまたこの歌集を、ここに歌われる何かを求めていたひとりである。折に触れて読み返してきた。

いまだ砂になってはいないけれど、表紙は折れてしまったし、背に貼られた寒冷紗は解けはじめている。これからも僕はこの本を読むだろう。この身が朽ち果て砂と散るのと、この本が無に帰してしまうのと、この街が砂漠に変わってしまうのと、いずれの出来事がはじめに訪れるのだろうか。

 『砂丘律』は瑞々しい情緒に溢れている。言ってしまえば、とても「エモい」。一首引いてみよう。

さよならが一つの季節であるならば、きっと/いいや、捨てる半券(223頁)

 別離が一つの季節であるならば、再会もまた季節として巡ってくるだろう。そのようにして「きっと」に期された再会が、「/」による句割れによってすぐさま断念される。「捨てられた半券」は、なんらかの記念物だろうか。希望が棄却されたあとに残るのは、諦念と微かな清々しさ、そして寂寥感である。複雑に、大きく揺れ動く感情が、ここには刻み込まれている。

この一首を見てもわかるように、また献辞に「Y・Yへ 限りない感情を」とあるように、『砂丘律』には豊かな感情が刻まれている。それこそが「エモさ」の起源でもある。そして、その中でもこの一冊に通底し、その(ハードボイルドな)色と魅力を決定づけているのは、「寂しさ」だ、と僕は思っている。

それでは、その寂しさはどのようにして生み出されているのか。『砂丘律』に通底する寂しさとはいかなるものであるのか。

僕はこの試論でこのことを問うてみようと思う。そして、「砂漠」と「海」というふたつのイメージの系を結ぶことによって、ひとつの答えを与えようとする。そのいずれの風景も、「寂しさ」を生じさせるものなのだ。

(先取りして述べると、答えを得たのちも論述は続く。「寂しさ」とともに僕たちはどのように生きることができるだろうか、ということを考えなければならないからだ。)

砂漠

言うまでもなく、「砂漠」はこの歌集でもっとも印象深い光景のひとつである。『砂丘律』に歌われる砂漠、とりわけ中東の砂漠は、僕たちの住む温暖湿潤な風景とはずいぶん違っていて、まずは新奇な印象を与える。たとえば、次のような歌だ。

アラビアに雪降らぬゆえただ一語ثلجと呼ばれる雪も氷も(143頁)

ثلجには「サルジュ」とルビが振ってある。アラビア語の使用と相まってその乾燥した風景はオリエンタルな魅力を与える。

一方で、僕たちと遠く離れた神秘的な風景のみが描かれているわけではない。『砂丘律』には中東での暮らしを写し取った歌がいくつも収められており、たとえ砂漠に近い街であったとしても、僕たちの知るような暮らしがそこにあることを読み取ることができる。しかしそこには、戦争の影がつきまとっている。

……7月18日286人、7月19日247人、7月20日252人
君の村、壊滅らしいとiPhoneを渡して水煙草に炭を足す(113頁)

駅前の、舞う号外の向こうからいきなり来るんだろう戦火は(141頁)

 すぐ傍にカタストロフが存在し、それがいつか自らの身をも飲み込むかもしれない、ということすら、冷めた目で受け入れること。千種の詠む中東の日常、そこにはこのような感覚が鳴り止まず唸っているように思う。中東における戦争の危機は、必ずしもその砂漠という風土と結び付けられるものではないのだろうけど、こうしたクリティカルな状態は僕たちに、砂漠という致命的環境の非人間性をより強く感じさせるだろう。

砂というよりも乾きの降る街を帰れば鼻に血の熱さかな(182頁)

砂とは種々の固体が摩耗しきって行き着く形態である。いわば砂漠は、地上の最後の風景。それは終局カタストロフを、紛れもない終わりの風景を幻視させる。そうしてみると砂漠は、物質の終局地帯、喪われた様々のものの行き着く先であるのだと言えるかもしれない。砂漠は徹底的に僕たちを拒絶する。僕たちは砂漠のただ中に生きることはできない。それでもなお砂漠に生きるのだとすればそれは、終わりの傍らに立ち、たくさんの喪失を受け入れながら生きることなのだろう。『砂丘律』に詠われる砂漠とは喪失の風景であり、そこには、拒まれた人間の諦念と、それが生む――根源的な――寂しさが刻み込まれている。

そして、この感情は砂漠のみによって生み出されるものではない。乾燥しきった荒野とは一見正反対のように思われる「海」もまた、人間の傍にあって僕たちを拒むものである。

 『砂丘律』という書名のためか、この歌集について語るときには、砂漠、砂、荒野といったイメージの系ばかりが語られることが多い。[*1](#f-96e5db43)

しかし、丹念に目を通すならば、海あるいは水にまつわる光景が、いくつも織り込まれていることがわかる。たとえば次の歌。

この雨の奥にも海はあるだろう きっとあなたは寝坊などして(240頁)

雪も氷も水も、それらはみな、最後に海へと流れ込む。海はひとつの終着地点だ。『砂丘律』で描かれる水は、この「終わり」へと向かう感覚、終末を予感する感性を帯びているように思われる。

それはしばしば、街を飲み込むような幻想として表される。

このままじゃ 船が河口に沈んだらとても平らな夕景だろう(41頁)

この街が滅んだとしてしばらくは沖に停まってるのかい、タンカー(43頁)

図書館も沈んだのかい沿岸に漂う何千という図鑑(46頁)

 すべての終着地点である海が、いつしかすべてを飲み込んでしまうということ。カタストロフのひとつの形。たしかに海は生命を育むもの、僕たちの生命の誕生にとって欠かすことのできないものだ。しかしながら、ここで海は、あるいは水は、乾きを癒す救いのようなものではない。それは僕たちの生を飲み込み、終末の風景を現出させうる巨大な可能性としてある。安定した大地の上で暮らす僕たちの生でさえ、じっさいには常に脅かされているものに過ぎないのだ。

密にあつまり浮草はあやうい陸をみせる Life is a Struggle(58頁)

氾濫する水の巨大な力に向かい合ったとき、僕たちはどうすることもできない。その広大無辺な世界の力を受け容れることしかできないのだ。僕たちは海のほとりに立ち尽くし、逆巻く波に飲み込まれてしまうだろう。こうした喪失への予感が、『砂丘律』に描かれる海には染み渡っている。

夜のうちに君がいるうちにくしゃくしゃの地図にいまさら海を探すも(31頁)

喪失

そこに通底する「寂しさ」の淵源を探すため、『砂丘律』における「砂漠」と「海」という二つの場所を訪れた。それらの場所は、僕たちの生の傍らにありながらも、決して僕たちの生を救うことのない、致命的な終局のトポスとして感覚されている。圧倒する広大無辺に相対したとき、僕たちはただ無力感に甘んじるほかはない。さまざまな事物が否応もなく喪われていくとき、僕たちはただ、「寂しさ」を抱えて生き延びるのである。

つまりはこういうことだ。「砂漠」と「海」という(エレメンタルな)二つの系によって生成される「寂しさ」は、カタストロフに対してそれを受け入れることしかできない自らの弱さフラジリティに起因する。この世界に存在するすべてのものは、いつしか否応もなく喪われていくほかはない。それゆえ/にも関わらず、生きているかぎりぼくたちは、その喪失を「生き延びてしまう」。『砂丘律』に刻み込まれた豊かな感情の根源は、ここにある。他者を喪失していくことに対する諦念が、自分が「生き延びてしまった」ことの絶対的な疎外感こそが、「寂しさ」を生むのだ。

「砂漠」と「海」とは、他者の行き着く絶対的な終局地点であり、喪失の謂に他ならない。喪われていくのは他者であり、それすなわち「君」である。『砂丘律』の最終盤に編みこまれた連作「認めることの雪について」には、その場面が直接的に描かれることはないにせよ、このような喪失への予感が深く刻み込まれている。

純白に満ちてて、結婚は汚れうる色で、君と砂漠まで逃げてきた(246頁)

吐くものがもうない君の吐くつばにかかってゆく透明な重力(249頁)

君がそのマフラー巻けば冬、けど来年は、いや、二人だ、冬だ(256頁)

糸杉の幹に触れつつ照れながら君は真冬の裏へ回った(258頁)

人は自らの終局を経験することはできない。喪われていくのは事物であり、他者であり、「君」である。「死」という最も明瞭な喪失について考えてみよう。人にとって死とは、常に既に他者の死である。他者は喪われていき、他者の世界が損なわれていく。「死」は不可逆な過程である。他者が喪われていくことを阻止することはできない。

では、喪失を目の当たりにしたとき、僕たちはただどうすることもできないまま見送ることしかできないのだろうか。『砂丘律』は、喪われゆく過去と現在にまつわる寂しさを詠ったのだろうか。

たぶん、そうではない。あとがきに「感情は、水のように流れていって、もう戻ってこないもの、のはずなのにシャーペンや人差し指で書き留めた瞬間に、よどんだ湖やまぶしい雪原になる、感情を残すということは、それは、とても畏れるべき行為だ」と書きながらも、千種はこの歌集を編んでいる。ここには「事実ではなく真実」が詠われ、「感情」が深々と刻みこまれている。喪失は不可避に僕たちのもとを訪れる。しかし、あくまで弱々しい仕方ではあれ、僕たちはそれに抗うことができる。たとえば詠うこと、書くことによって。

「私はお前を担わなければならない」

少しなりとも喪失に抗おうとするとき、次のような言葉を思い起こさずにはいられない。

世界は消え失せている、私はお前を担わなければならない。

パウル・ツェラン「雄羊」

ホロコーストを生き延びたユダヤ詩人、パウル・ツェランの詩の一節であり、フランスの哲学者、ジャック・デリダが『雄羊』で試みた読解によってよく知られるものだ。『雄羊』においてデリダは、他者を喪失すること=ひとつの世界が終わることについて、次のように述べている。

というのも、そのたびごとに、そのたびに単独=特異にサンギュルリエルマン、そのたびにかけがえなしに、そのたびに無限に、死は、まさしく世界の終わりだからである。それは世界内の誰かあるいは何かの終わり、ある生あるいはある生者の終わりといった、数ある終わりの内の一つであるだけではない。死は、世界内の誰かを終わらせるのでも、数ある世界の内の一つを終わらせるのでもない。死はそのたびに、そのたびに算術の挑戦に立ち向かって、ただ一つの同じ世界の絶対的な終わり、それぞれがただ一つの同じ世界として開始するものの絶対的な終わりを印づける。唯一無二の世界の終わり、人間であろうがなかろうが、しかじかの唯一無二の生者にとって世界の根源として存在する、あるいはそのようなものとして現れるもの全体の終わりを印づけるのである。

そのとき、生き延びる者は、ただ独りで残されるのだ。他者の世界を越えて、生き延びる者は、同様にしていわば世界そのものを越えているか、あるいはその手前にいる。世界の外の世界、世界を奪われた世界の中にいるのだ。彼は、少なくとも自分がただ独りで責任を負う者だと、他者をも彼の世界をも担う定め、消滅した他者と消滅した世界そのものとを担う定めを負う者だと感じている。世界なしに(weltlos)、どんな世界の土地もなしに、以後は、世界の終わりの彼方の地の果てのような、世界なしの世界の中で、ただ独りで責任を負う者だと感じている。(20‐21頁)

ここで世界とは、この世のありとあるものすべてを包含する基体としてのみならず、ある存在にとって特異で代替不可能な現象として表れるものを指す。したがって死は、その存在に特異な世界の消滅を意味する。それゆえ、他者の死のあとに遺された者、生き延びてしまった者は、「世界を奪われた世界の中にいる」。デリダはここに一層つよく倫理的要請を聞き取っている。すなわち、生き延びた者は、彼を遺して消滅してしまう他者=世界を、世界の終わりの果てで「担わなければならない」のだ、という声を。世界という途方もなく巨大なものを担い、他者という無限を担うこと、それは極めて困難なことだろう。それでもなおデリダは、生き延びた者はそれをしなければならないのだと言う。

赤土の水辺にみずがみちていて声もぜんぶぜんぶ覚えていたい(52頁)

しかし、他者を担うとはどのようなことだろうか。デリダの美しい語り口――『雄羊』は、哲学者ハンス・ゲオルグ・ガダマーの死に際してデリダが行った追悼講演を書籍化したものだ――は、意味を取りづらくもある。ひとまずここでは、「他者を担う」ことを、他者を己のうちに刻み込み、想起し、残し続けることだと考えたい。このような喪失への抵抗は、他者の死の瞬間に始まるのではない。「私たち二人のどちらかが、ただ独りで残らなければならなくなるだろうということ、私たちは二人とも、前もってそのことを知っていた。それも、ずっと以前から」(20頁)とデリダが書いているように。きっとそれは、つまり喪失への抵抗は、僕たちが他者に出会った時既に始まるものなのだ。

どうしようもなく世界は喪われていく。僕たちは日々たくさんの喪失を経験する。その取り返しのつかなさに気付くこともなく。あるいは、気付いていながらにして。死者に対してばかりではない。「砂漠を歩くと、関係がこじれてもう話せなくなってしまった人と、死んだ人と、何が違うんだろって思う」(242頁)。僕たちは日々たくさんの喪失を経験する。どうしようもなく世界は喪われていく。そんな中で、他者に対する倫理のため、「君」への手向けのため、そしてたくさんの喪失を抱えて生きていかざるをえない僕たち自身のために、「抵抗」は要請されるのである。それは詠うこと、書くことであり、「明日もまた同じ数だけパンを買」うことでもありうるのだ。

明日もまた同じ数だけパンを買おう僕は老いずに君を愛そう(18頁)

海と砂漠は似ている。

その広大無辺さ。

波が、風が、絶えずその形を変え、「世界」は常に喪われていく。

『砂丘律』はたぶん、喪失に対する――ささやかな――抵抗の書だ。生きていくことは、不確かで荒れ果てた浮島の上でもがくstruggleことでしかない。この世界は喪失の予感に満ちあふれている。だからこそきっと、僕たちは忘れずにいたいのだ。日常詠に詠われるささやかな幸せのことを。

スパゲッティ作りあうのを同棲の或る角度として砂時計(244頁)

茄子にぎる手の映りこむ一枚は朝だとわかる すごくありがとう(246頁)

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の(252頁)

 僕たちは喪失していく。喪われたものを取り戻すことはできない。それでも、喪われゆくものを担うことはできる。砂漠へ、海へ、弱々しく手を伸ばし続けること。喪失を抱えたまま生きること。そのようにして僕たちは今日を生き延び、明日へと向かっていくのである。

(了)

砂丘律

雄羊 (ちくま学芸文庫)

[*1](#fn-96e5db43):数少ない例外は、安田百合絵による評であろう。該当部を引用しておく。「そのあやうさに重なるのは、「砂」。『砂丘律』のそれは、こぼれおちてゆくはかないものとしての砂ではなく、裁きの砂、肺までも乾燥させ、降りつもれば人を圧する、不安にさせずにはおかない砂であるように見える。その砂漠のなかで、魂の渇きを癒やすものとして水(辺)があり、追憶があり、歌のリリスムがある。」なおこの評は千種のブログ[http://dunestune.blog.fc2.com/blog-entry-3.html](http://dunestune.blog.fc2.com/blog-entry-3.html)で参照することができる。