仕事を終え、職場のビルを出たところで、風の意外なつめたさを知る。八月の終わりを感じるにはお誂え向き、しかし今年はまだ台風も夕立も浴びていない。夏の空気というものをいちばん感じるのは、照る日の力強さやうだるような暑さでもなくて、ただ暴力的に降り注ぐ雨を浴びるときなのかもしれない。

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きょうは行きみちに梨木香歩の『家守綺譚』を読む。毎日通勤しているし、片道の通勤時間もそこそこにあるから、さいきんは本読みがよく進んでいる。

『家守綺譚』はこんな話だ。

時は明治の末から大正のころ(と思われる)、頼まれて、早世した親友のかつての住まいに越してくる若い文士がいる。名を綿貫征四郎という。その住まいは京都山科あたりの二階屋で、草木ゆたかな庭があり、ついでに庭には池がある。そこは親友の実家であったが、その死後家族が隠居することとなり、住む者が絶えてしまうところ、親友の父親から「この家の守をしてくれないか、ここに住んで毎日窓の開け閉めなりとしてくれたなら、些少なりとも月々のものもお渡ししよう」との話を受け、渡りに船とばかり引き受けたのが綿貫だということになる。綿貫がその屋敷に住み始めてからというもの、庭の草木は生ゆること甚だしく、百日紅の精に好かれ、犬に懐かれ、親友の幽霊は現れ、と、なんともまあ精気に満ちた一年の暮らしが描かれていく。

草木や自然のものどもについての豊饒な記述を楽しみつつ、百日紅であったり、河童であったり、綿貫のところに現れるものたちはおおむね人に近い姿をとることには、誰しも気づくことだろう。これを安易な擬人化であると断ずることもできるだろうけれど、それはそれとして、人間に見えるものとは所詮人間のことに過ぎないのだ、というような気がしないでもない。或いはそれらが擬人化して現れでてくるのでも随分よくて、大半の人間にとっては百日紅の木があったとき「百日紅の木が生えている」ということ以外を感じることさえ難事なのかもしれない。というか僕は後者だなと思う。

幽霊でもなんでもいいけれど、「見えてしまう」人というのは時代を問わずいるのだろう。「目にうつる全てのことはメッセージ」というユーミン式の万物照応ではないけれど、世界の過剰さのようなものをその身に受け止めてしまう人というのは、やはり、いる。彼らにしてみればたまったものじゃないこともあろうけれど、僕はときどき、彼らのことが羨ましくなる。

と、ここで、かつて根津の古い部屋を借りていた頃を思い出す。

古いといっても築50年ほどとのことであったから古民家というにはいささか野暮であり、ボロ家と言うのがはるかに正しい。ボロ家の悪い点を挙げていけばキリはないけれど、ボロ家にはボロ家のいいところもあって、家賃が安いわりに部屋が広く(床面積も広いが、なんというべきか、精神的な広さというものがあった)、ごろごろと暮らすにはずいぶんよいところだった。さてそのボロ家であるが、霊感があるという人が遊びに来た際には「そこにいるね」という評をもらう。言われてみれば確かに日当たりも悪いし水はけもよろしくないし、何かが溜まるにはうってつけの場所である。なんなら隣の敷地には廃墟化したアパートがあった。それはなにかしら「出る」のも仕方がなかろう。それにもかかわらず、僕はそこで安穏と暮らしていたわけで、我ながら鈍さに呆れてしまう。さらにいえば、「出てほしいな」と期待していたところさえもある。しかしながら、幻聴なんかでもいいぞと構えているところに聞こえてくるのは、隣家のやたらうるさいラジオの声だけ。

はてさて怪奇・物の怪・世界の過剰さの類とは縁遠い根津暮らしではあったけれど、一度だけ、「もしや」と思うことがあった。それは引っ越してから初めての初夏、いまだ熱帯夜にはなりきらぬある夜のことである。勉強机に本を広げてうとうとと読書をしていたところ、突然左後ろのほうから重いものが落ちるような音がする。びっくりして振り返ると、黒い猫が一匹いる。そこで僕は「わっ」と大きな声をあげてしまう。猫もびっくりして、身を翻して外へ出て行ってしまう。一通り落ち着いたところで考えてみると、開け放しておいたトイレの小窓から猫は入ってきたと見える。猫が家の中に入ってきたのは、後にも先にもその一度限りであった。

あるいはあの時、煮干しでもやって猫と近づきになれていたなら、世界と僕の付き合い方というのも随分変わったんではないかということは、折々に考えてしまい、自分の鈍さというものに「あらまあ困ったものねえ」と思う。そんなわけだから『家守綺譚』の綿貫征四郎には少なからぬ憧憬を覚え、その物語を心地よく読む。

『家守綺譚』には『冬虫夏草』という続編があるらしい。今度また読んでみることにする。それまで今しばらくの間、道々の気配というものに感覚を研ぎ澄ませてみよう。