20250630

Posted on Jun 30, 2025

人との交流の目的ではほとんどTwitterを使わなくなっていて、どちらかというとそれこそマイクロブログ的にツイートを読むとか、あるいはもうすこし”情報収集”的な下心を持ってTwitterをみていることが多いように思う。単に「情報」だけを収集できれば苦はないのだが、やはりそこには人間的なノイズが多く含まれるし、基本的にTwitterは人を愚かにするものであるから、眺めていてしんどいことも増えてきた。とはいえ、他人の発信をタダで見ておいてなにが「ノイズ」「しんどい」なのだ、なのであり、これはインターネットの宿命であろうと思う。

似たような話で、Splatoonをやっていると時折いわゆる「煽り」を行うプレイヤーに遭遇することがある。PvPのゲームはほとんどSplatoonくらいしかやったことがないし、おそらくそうした「煽り」はゲーム文化のひとつだと思うので、取り立ててめくじらを立てるようなことでもないと考えるべきとしつつ、毎回、「こういう輩とも連帯して市民社会を作っていかなければいけないのだ」と思う。受け入れがたい隣人はきっと多い、しかしわれわれは連帯しなければならない。

散歩の途中、米津玄師の「地球儀」を聞きながら、宮崎駿が現在のところの遺作においてもっとも多くを託したのはヒミではないだろうかと思った。宮崎駿はいついかなるときも未来を肯定してきたし、それが母の目線を通してなされているように思う。宮崎駿と「母」というモチーフは語られ尽くしているはずなので、どこかで言われているんだろうけど、彼は「母」でありたいのではないか、と考えた。

「母」になりたい男たち、というのは結構いるように思う。土井善晴のこともおれはそのように解釈している。