過日、国立西洋美術館のチュルリョーニス展を見にいった。
予備知識はなかったが、画家の生涯が短かったこともあり、全体像は掴みやすかった。評価されそうな絵と、そうでもなさそうな絵がはっきりしていたと思う。前者は構造が描かれたものであり、後者は喩が描かれたものだとも言える。図録のテキストでも抽象絵画の先駆としての位置づけについて検討されていたが、その線で評価した方が、よく見えるだろうと思う。それは現時点における目線での見かたに過ぎないかも知れないが、画家の存命時にそうした評価が得られることはまた難しかったであろうということもよく分かる。同時開催の北斎については、へーと流し見。
常設を見るのも久々だったけれど、久々に見るとありがたいなと思う。教科書的な西洋美術史の流れを粗々にでも追える場所は日本には少ない。セザンヌがやたらよく見え、これは昨年せんがわ劇場にてバストリオの「セザンヌによろしく!」を観ていたからその関連想起でそう思ったのかもしれないが−−今年の7月に武蔵野芸能劇場でもやるみたい、吉祥寺シアターじゃないんだ−−、ともかくセザンヌについて勉強してみようと思った。メルロ=ポンティについても記憶が薄いし。そこにおいてなにかを現象させること。
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五月祭に関連するツイートが目に入る。もはや、というまでもなく普通に部外者であるから言及するのも難しいが、自分の学生時代が今に比べたらずっと牧歌的な時代だったことを思う。友だちの家で宅飲みしていて、半分うつらうつらしながら明け方、テレビで次回のオリンピックの開催地が東京に決まるところを見たのを妙によく覚えていて、その微温的な時間と空間に時代と自分の人生の一時期が交差して刻み込まれたかのようだと思う。しかし一方で、その頃にも世界各地で紛争・人権侵害・テロは発生していたこともまた確かな記憶としてあり、私の日常がどこまでも薄氷の上のものでしかないというような、むしろ私の日常に対する違和感のようなものが、ずっとある。十年一昔とくくってしまえばすでに一昔前であり、一昔前に比べてなお世界は暗い場所になった。
暗い場所に私の子どもは生まれたことになる。子が生き、育っていく時代は私が経験してきた時代と様子が異なるものになるだろう(しかし、それはいつでもそうかも)。そのことの意味をよく考えている。